自ずから然るべく

私たち人間は縦糸と横糸を通じてのみ在る、一枚の布のようなもの、ではないかと前回述べました。今回は「生きることに目的はあるのか?」について考えます。
まず物質(現象)面から考えます。この地球は、太古の昔に太陽という恒星を中心に、宇宙の塵やガスなど星間物質から生じたと言われています。太陽からの絶妙な距離や水の存在など恐ろしく低い確率のバランスで生命が誕生し、その時代の気候や環境に適応した生物が生成・繁栄や衰亡を繰り返し、現在、私たち人類の繁栄に至っています。詳細は多くの科学者が明らかにされていますが、その過程は驚異・茫然・言語を絶するスペクトラムの連続です。その悠久の歴史の中で、なぜ「私」というものが今存在しているのか、それを思うだけでも「???」不可思議極まりなく、ある意味全細胞が湧きたつほど歓喜を覚えます。
そしていつの日か(100億年後?)、この地球は、太陽が寿命で赤色巨星化することにより飲み込まれる、と言われています。そして地球を飲み干した太陽は、白色矮星から黒色矮星になり最後には無くなるそうです。この過程をどう考えてみても、私たちの生命を含め、生きとし生けるもの全て、そして宇宙の物質もその個々は有限なものです。諸行無常です。この有限なものの生成・繁栄・衰亡・消滅が果てしなく(しかしこれも有限?)繰り返されていく。この有限のサイクルの中にはきっと美(真善美?)が織り込まれているのでしょう。慄然と美しい。一体この運動のエネルギーは何なのか、その源は、なぜそうなっているのか、まったくわかりません。しかし私はそれが自然というものなのではないか、と感じます。自然とは自ずから然るべく、という意味だそうです。誰がこの言葉を考えたのか知りませんが、それは目的や理由なく、ただ自ずから然るべく在る、もの。この言葉は凄い!と感じます。自然とは然るべく在るものだ、と考えると私たちの肉体(物質)が生きていること自体には目的や意味が無い。ただ然るべく生きるのみである。どんな環境であろうとも、肉体が亡びるまでただ生ききるのみ。私はこれを思うととてもスッキリ、雲が晴れたような気がしています。

次に、精神面を考えます。私の精神を「ボク」と呼びましょう、。ボクは自由自在、融通無碍です。たとえば先日、テレビ(コスミックフロントという番組)を観ながら、ボクは、地球から7300光年離れた白鳥座X-1に近いブラックホールの中にダイビングすることができます。また別の番組を観ながら、地球のマントルや核を通りながら、ブラジルの首都サンパウロまで抜けていくことができます。ボクは行きたい場所に瞬時に行けるし、会いたい人にすぐに遇える。過去にも未来にも自由自在です。このボクにある「思う力、考える力、想像する力」は、なぜ備わっているのか、これも「???」、不可思議の一言です。しかもこの力、おそらく人類すべての人たちも備えている。松本零士さんは四畳半から宇宙を想像しましたし、宮沢賢治さんは虫や植物、山や川、星を観てさまざまな童話や銀河鉄道を想像しました。
このボクを総称した「精神という力」は反面、とても厄介なものです。自由である反面、とても小さなこともたくさん考えてしまう。コンビニでどのおにぎりを買うか、どの缶ビールを選ぶか、変なメールをどうやって防ぐのか、虫さされの薬は何が効くか等。また他にも考えるべき問題も流れ込む。たとえば、こどもの将来、お金、自分の老後、病気(健康)、どこかの国の戦争や災害など、ネガティブなニュースに一喜一憂する毎日です。ホントに疲れます。

有限である肉体に、融通無碍で奔放極まりない精神が宿っている。自由な反面、どのような些末な現象にも反応してしまう。しかし肉体をもつ現実は有限であり、ボクの思い通りにならない。気が休まらない。悩みが尽きない。苦しい。
上座仏教のアルボッムーレ・スマナサーラ氏は、「お釈迦様は、その精神(心)の動きを止めなさい」と教えている、と述べています。心を鎮め、人間が生来もっている煩悩(心の癖・傾向)を抑え、過度の欲望を生じさせないように戒律(生活上のルール)を守り、生命のネットワーク(生命の布)に施すこと(布施)を日々行いなさい、それが安寧の境地(解脱)への道であり、人生の目的だと教えられています。
一方ギリシャの哲人、ソクラテスは「人生の目的は善く生きること」と述べています。この善く生きるという意味ですが、私たちが囚われている固定観念を一つずつはずし、自身の存在について考え、その驚異とも言える不可思議さ、わからなさ、をはっきりと認識すること、本質(真理)に触れようと努めること、そのことを善く生きる、と表現していると私は考えます。この二人の教えは、一見矛盾しているような気がします。考えないことと考え続けること。思わないのか思うのか。

脳科学者の中野信子氏は、脳はカロリーをとても消費するので、できれば考えたくないのが脳の性質である、とその著書「脳の闇」で述べています。なるほど私自身も起床から就寝まで日常の細かな生活習慣やルーティーンがたくさんあります。それはいちいち細かなことについて考えたくないからでしょう。しかし、自身や家族の病気や事故などの重要な局面では、どうしても考えざるを得ない。いくら生成AIなどが普及しても諸行無常や日々変化する肉体をもつ私たちは、考えることからは逃げられない。つまり考えることが生きることに限りなく近い気がします。

そして私自身は、考えること、思うことが、考えないこと、思わないことにつながっている気がしています。考え得ない、思い得ない、という方が適切かもしれません。本当は何なのか、と考え続けると、最終どうしてもわからないことにぶつかる。その不可思議さは驚異を伴います。例えば「死」もそうです。自分は死んだことがないから、やっぱりわからない。考えられない。しかしそれでも考えると、そうだ!それ(死:ただの観念で考えられないもの)が訪れるまで、生ききるぞ!と気づきます。するとスッキリして、もう「死」について考えなくなる。考え続けた結果、「不可解」に気づく。そこで何かに気づく。あるいは大いなる何かに祈らざるを得ない、ことに繋がっていくような気がします。哲学と宗教はこの境界にある気がする。


それでは、何を考えるのか?前回、私の存在は他者を通じてのみ在る、私は1つの結び目であり、布である、と述べました。そうであれば、私と他者にとって善いことは何か、を考えることが人生の目的なのではないでしょうか?それをすることが私にとっても他者にとっても善いこと、たとえば私も皆も困っていることを見つける、それを解決する方法を考える等です。この世界は課題だらけです。エネルギー、飢餓、貧困、感染症などの病気、人権侵害、教育などの格差、性差、その他の抑圧など多くの人たちが困っています。また私たちが生活する地域においてもたくさんの課題が存在します。それらの課題を解決する方法を考えること、も人生の目的に適うことではないかと思います。
中には、考えることではなくて行為することではないか、という意見もあるかもしれません。しかし行為は肉体の活動を伴います。肉体は有限であり、個人差があり、環境や時宜に影響を受け、不平等です。従って、行為ができないこと、や行為に至らないことも多々あると思います。一方考えること(精神)は前述した通り、各個において自由であり、各人に平等です(と思います。)そして精神(観念)はいずれ環境や時宜を得た時、自ずと力となり、行為につながり、現象化するように思えるのです。

以上の理由により現時点の私は、人生の目的は、(私と他者にとって善いことは何かを)「考えること」ではないか、と考えています。たとえどんなに理不尽なことがあったとしても、自分と他者にとって善きことは何かと考え続けること、と私は思います。

そのように眺めてみると、この世界は過去より私たち人間が考えた通りになっている気がします。月に行きたい、火星に行きたい、宇宙の果てを知りたい、病気を治したい、もっと便利にしたい、もっと快適に暮らしたい、美味しいものをたくさん食べたい、他の人よりも目立ちたい、など。しかしこれらの中には、他者は無関係で私だけにとって善いことが含まれている気がします。そのような観念が行為を生み現象になっている。それが現在そのもの。そしてそれらの現象は無常であり、永遠ではない。それらの現象を追いかけ続ける私たちに心の平安が訪れるのは難しい。しかしいつの日か、あらゆる観念は人が勝手に思いついたただのコトバに過ぎない、本当は何も無いのだ、と精神があらゆる苦しみや悩みから自由に開放される日が私たちに訪れるかもしれません、そして訪れないかもしれません。

そのことも含め、「私と他者にとって善いことは何か考えること」私はそれが人生の目的であると考えています。