好き嫌いの向こう側

私は、嫌いな人と同じ場所に居るのが嫌です。ご飯を食べるのはもっと嫌です。そんなこと気にしないという人もいるかもしれませんが、私は嫌なのです。この好き嫌いはなぜ起きるのだろうと考えてみます。

もともと私たちは五感があります。目で見る、耳で聴く、舌で味わう、手で触る、鼻で匂う。しかし同じものを観たり、聞いたりしても、それぞれの人によって感じ方は異なる。たとえば私は漬物が苦手ですが、漬物がないとご飯を食べた気がしない、という人もいます。音楽での好き嫌いはもっと明瞭。私は椎名林檎さんを涅槃のアーティストとして敬愛していますが、親戚のおばさんは、「やかましくて何がいいのかわからない」と言います。哲学者池田晶子さんは犬の肉球の匂いがとても好きと著書で書かれていますが(私も同感)しかし「臭いから嫌い」という人も多くいます。とても不思議です。私たちは同じ器官がついているのに、感じ方がそれぞれ異なる。これらはいくら親子だろうが、夫婦だろうが、親友だろうが分かり合えない。相手は異星人のように感じる。そこで、同じものが好きな人同士が集まることになる。しかし好きな人同士だとしても好きの度合いが異なる。そのアーティストは好きだけど好きな曲が違う、というように好きな点が微妙に異なる。一体なぜこんなことが起きるのでしょうか。

好き嫌いは、先天的なのでしょうか?後天的なのでしょうか?私はどちらもあると思います。

まず嫌いな動物や虫、魚類がいます。蛇や蚊、サメなどです。これらは、人間に危害を加える恐れがあります。ご先祖様たちも同じだったと思います。だから近寄らない、退治する、嫌い、となるのが分かる。反対に人間に善い価値を与えるもの、食べたら美味しいもの、観て美しいもの馬、牛、羊、鶏、魚などの家畜や食べられる魚類や植物など、が好きの対象になったのでしょう。つまり私たちに害を与えるものは嫌いで、価値があるものは好き。そう考えてみれば、好き嫌いのカテゴリーは、先天的に(DNAに刻まれている?)ある程度決まっているのかもしれません。生まれたばかりの赤ちゃんでも、秋田のナマハゲのように、大きな音や声を出されると泣く。自分を脅かすような大きな声や音、そして得体のしれないものが怖い➡嫌い、やはり先天的に、好き嫌いはあると私は思います。これは雷が嫌いな犬や猫などの動物にも言えるのではないかとも思います。
一方、後天的な好き嫌いも多いです。生まれてから私たちは親、学校の先生や友人に影響を受けます。たとえば親が嫌いなものは食卓に余り出てこないので、(親が嫌いと)いつも聞いているし、食べる機会が無い、だから自分も嫌いと思い込む。学校では体育や音楽などいろいろな授業があります。同級生より早く走れるから走るのが好きになる。うまく歌えるから歌うのが好きになる。他の子より算数が上手だから好きだなど、他者と比較して自分が得ているものを好きになることも多いし、その逆もある。機会の多さも好き嫌いに影響します。サッカーが流行ると、友人に誘われる機会ができるので、やってみたら楽しくなる。だから好きになる。しかしやってみても上手くできなかったり、面白くない、と感じることもあります。そのものが好きでも嫌いでも無いけど、友人と一緒にできるから楽しい、ということもあります。つまり家庭や社会において様々な機会を通して、自分の身体そして精神がそれぞれ、好きなもの、嫌いなもの、合うもの、合わないものを選んでいる、それがその人の人生をカタチ創っている、と言えるかもしれません。

しかし、このような好き嫌いも変化していきます。私は小学生時代、給食に出ていたマヨネーズが嫌いでいつも残していました。しかし今ではマヨネーズの無い食事はほとんど考えられないほど大好きです。音楽ももちろん変化しています。中学や高校の時は、イーグルスやEW&Fなどのディスコ音楽をよく聞いていましたが、今は全く聞きません。読書も好きですが、昔好きだった推理小説などは今全く読みません。要するに、肉体と精神が成熟(老化?)するにつれて、それぞれ今の肉体と精神に合うもの、価値があると思ったもの、を選んでいるのだと思います。
そう考えると、今好きなものに(嫌いなものに)こだわり続ける必要はないかもしれません。今テレビ番組で鉄道ファンが喜ぶものがありますが、私はまったく興味が湧きません。でももしかすると将来、鉄道オタクになっているかもしれません。それはわからない。この辺りが面白い。

食べものや音楽などの趣味ではなく、人の場合はどうでしょうか?人の場合も、好き嫌いは変化します。私は昔、カリスマ性のある人物が好きでした。豊臣秀吉、田中角栄、松下幸之助、本田宗一郎、GE社のジャックウェルチ、クライスラー社のリー・アイアコッカ、ディズニー社のウオルト・ディズニー、MS社のビルゲイツ、アップル社のスティーブジョブズなど。でも今はまったく興味がありません。いろんな本を読んでいくと、彼らも私たちと同じ弱い人間だったと気づいたからです。成功?したと言われるのは、多くの優秀で勤勉な人が周囲で支えていたから。そしてその事業のタイミングが良かったから、と感じます。時代が異なっていれば、その方々も世に出なかったでしょう。そしてたとえば今、そんな成功者?の方々から食事を招待されたとしても、私はお断りします。(苦笑)経験上、成功者と言われる方々には自我、自己顕示欲、承認欲求が強すぎる人が多いように思われます。今の私は苦手です。でもそう思う私も相当自我が強いのかもしれません。(苦笑)

親と上司は選べない、と言いますが、では、そんな嫌いな人、苦手な人に対してどう接すればよいのでしょうか。私は武道を少しやっていて、「間合いを取ること」がとても大切だと感じています。間合いさえ適切ならば、相手と戦うことは無い。この間合いが破れるから戦いになる。どのような人間関係でも間合いがあると思います。身体的な間合いと精神的な間合いです。身体的な間合いとは、できるだけ距離を置くこと。できるだけ顔を合わさないようにする、話す機会を減らす。話す量を減らすなどでしょう。これは親子関係、先生との関係、そして会社関係でもよく見られます。精神的間合いとは、会わざるを得ない、話さざるを得ない、一緒にごはんを食べざるを得ない場合など、その人の話を受け入れずに、「そうなんですね」とただ受け止める。「何が言いたいのか」本質をつかんで、不要な部分は聞き流す。無駄な反応はしない。温顔無敵。意見を聞かれたら、「こんな考えや視点もあるかもしれませんね。」とやんわり表現する。精神的間合いは熟練が必要と思いますが、自分の精神を守るためには有効と思います。私自身は苦手な取引先オーナーさんや株主さんに対して、そう振舞っていた気がします。
苦手な相手との適切な間合いは、相手を観察することが前提です。熊やライオンなど動物園で怖そうな動物を観るイメージです。決して相手と同調せずに、自分を俯瞰者と置いて、相手をちゃんとよく観る、よく聴いてみる。そうすると不思議なことに、次第に相手が同じ生きものとして面白く、可愛く、愛おしくなってくることもあります。「この人がこんなに自己顕示欲が強いのは、とても寂しいからに違いない。劣等感の裏返しなんだ。」と理解ができれば、この人も私たちと同じ弱い人なのだと愛おしくなってくる。間合いから愛への転換です。(笑)家庭、学校、会社など嫌いな相手とどうしても距離が近い場合、こんな風になれれば理想的ですね。なかなか高度だと思いますが。
さらに効果的なのは、苦手な人と一緒に「恐怖体験」してみること。私は一度、とても苦手な人二人と和歌山で観光ヘリコプターに乗らざるを得なかったことがあります。左右に隣同士でした。相手も嫌だったでしょう。そのヘリコプターが離陸し、かなり高度を上げた時、操縦士が後ろを振り向いてニヤっと笑いました。その瞬間ヘリコプターのプロペラが止まり、急速に落下。私は左右の人と腕を握りながら悲鳴を上げました。これを5・6回やるのです。三人はお互いの腕を抱きかかえながら悲鳴を上げ続けました。着陸後、私たち三人は笑い合いました。その後の会食もこの体験でとても楽しいものになりました。お互い表面的には嫌い同士でも、恐ろしい体験は皆怖いから手に手を取ってしまう。弱い人間同士なのでした。

話を戻しますと、要するに、私たちは、それぞれ好き嫌いを持っている。できるだけ好きなもの、合うものを選び、人生を創っている気がする。そしてそれらは変化している。それに応じて人生も変化する。

もし私たちに好き嫌いがなかったらどんな世界になっているのでしょうか?たとえば皆が1つの食べ物、1つの音楽、一種類の人間だけが好き・・・考えたくなくなるほどつまらない。おもしろくない。好き嫌いがあるからこそ、この世界は多様である。そもそも自然は多様である。だからこそ美しい、面白い、楽しい。それが生の大前提に在る。在ってくれている。昔から不思議でした。60種類の色がある色鉛筆セットを見た時、とても美しいと感じました。でもその中から一本取り出して見ると、美しいと感じない。単にその色というだけ。配色理論というのがありますが、色にも合う合わないがある。自然がそうなっている。もしかすると私たちはその色鉛筆の1本かもしれません。でも全体を俯瞰した時それはとても美しいはず。現在世界の人口は約80億人と言われています。もし80億色の色鉛筆セットがあるなら、絶句するほどの美しさなのでしょう。そしてそれぞれの一本は全体を構成する1本であり、それが無ければ全体の美も損なわれてしまう。大切なことは、他者の色を非難や差別、排斥することはあり得ないということ。他の色を排斥することは、全体の美を失うことであり、それゆえに私の色も価値を失うことにつながる。他者の好き嫌いを、分かり合えなくとも、その違いを分かろうとすること、認めること。そして他者に自分の好き嫌いを無理強いしないことが大事なのだと気づきました。そして好き嫌いも変化する。だから自分の好き嫌いにも余りこだわり過ぎず生きていこうと思います。

改めますが、好き嫌いを考えることで、その向こう側に、以前述べた、「ウブントゥ」(他者を通してのみ自分は在る)と同じ感覚を味わうことができました。