棒磁石・考
棒磁石はボクのお気に入り道具です。何度眺めても不思議極まりないのです。専門的なことはよくわかりませんが、N極とS極という、二つの両極端の力が一つに統一されている。そして同じ極同士は反発し合う。異なる極は惹きつけ合う。なぜなのでしょう。この道具は、ボクに考えるヒントを与えてくれます。たとえば対義語を考える時です。中学国語では、起点と終点、正常と異常、偶然と必然、肯定と否定、平凡と非凡、安心と不安など数多くの例が挙げられています。
この棒磁石を眺めていると、たとえば「起点と終点」を考える時、それらは異なる意味を持つけれども実際は一つのモノではないか、と感じるのです。起点が無ければ終点も無い、つまり起点という言葉は終点を含んでいる、のではないでしょうか。その他の「正常と異常」「偶然と必然」なども同じで各語はあらかじめ反対の意味を含んでおり、実質はの一つのモノかもしれない。一つのモノというよりも一つの運動、概念というべきでしょうか?
特に個人的に最近は「生と死」を考えることが多いのですが、この対義語も同じように、これらも一つの運動ではないかと感じます。言葉として死があるから生があるし、生があるから死がある。表裏一体。当たり前ですが、棒磁石を眺めると自分の中でスッと腑に落ちる。生きるという言葉だけを深く考えても、袋小路でよくわからない。死と共に一つのセット、運動として眺めると、生という言葉を深く考えることができ、その言葉の意味が自分の中で輝き出す。摩訶不思議です。たとえば、私たち人間(身体)は全て生まれて、生きて、死んでいく。これは普遍的な事実。そしてそれは、ほぼ非通知で突然やってくる。死の可能性は老若男女問わず全員に在る。世間が言う平均寿命など単なる統計。自分には全く関係が無い。朝目が覚める時「生きていた」そして「今日、ボクは死ぬかもしれない」と考える時、何をしたいのか、何はしたくないのか見えてくる。そのしたいことは、自分のことではなく他者のこと。感謝。そしてその一日は輝き出す。周りのもの全てが光を帯びる。これは棒磁石がボクにくれた知恵でした。「善と悪」「戦争と平和」「利他と利己」などについても考えてみたいと思います。