ウブントゥ
そもそも”生きる”ために目的や意味が必要なのでしょうか。今回はその前提として「生きている」とは何かについて考えます。
最初に、なぜ私は生きていると言えるのでしょうか。それは、(私の)目が見える、耳が聞こえる、味わえる、匂える、触れられる、そして手足が動きます。つまり自分の五感を通して対象を知覚することができる、だから生きていると思える。しかし、たとえば私がなんらかの原因で全身麻痺の状態、知覚できない、肉体が動かない場合ならどうでしょうか。それでも、私は考えること、思うことができる。だから、生きているのだと感じると思います。しかし、それでもまだ生きているという実感に確信を持てない。なぜなら、たとえば夢を見ているときなど、考えることはできていますが、生きているという実感はとても曖昧です。おそらくその確信は、他者が私を、承認している(と自分が感じる)、からではないでしょうか。「あなたはちゃんと存在しているよ」という承認(意識?欲求?)が、私が存在している確信のようなものを与えてくれていると思っています。確信というよりも、そう信じたい、ということかもしれません。「キャストアウェイ」という映画で、無人島にたどり着いたトムハンクスが、同じく流れ着いたサッカーボールに顔を描き、話し相手としていたことを思い出します。
さてその私はどこから来たのでしょうか。まず父と母が出会って、母が産んで、両親や祖父母が中心に大切に育ててくれたことは間違いありません。記憶ではおそらく幼稚園前くらいから”ボク”(私の中の精神的な部分)が現れ、その後もいろいろな人に出会い、お世話になりながら今まで生きてこられた、ことは間違いありません。まず大前提は父と母が出会っていなければ、私は産まれていない。そして両親それぞれ健康でなければ私は産まれていない。加えて、産まれてからも衣食住の良好な環境がなければ、私は育っていない。そして天災や事故、大きな病気等に遇っていれば私は今のように育ってはいないはず。それらを総合すると、かなり稀な確率でこの私は今まで生きてきたと言えます。
それだけではありません。戦中生まれの両親もかなり少ない確率で生き延びてきたのには間違いがありませんし、戦争を潜り抜けてきた両親の親も同じでしょう。一世代を約30年と仮定すると、十世代も遡れば、相当な数のご先祖になります。つまりご先祖一人一人も想像を超えるようなさまざまな状況の中、出逢い、潜り抜けながら生き抜いてきたからこそ、今の”ボク”がいることは間違いありません。これは、奇跡や偶然という言葉では表現できない程の僥倖でしょう。
稀な確率で生き延びてきたご先祖への流れを”生きる”ための縦軸としておきます。この縦軸というものは大変不思議で、自分から祖先へ世代を遡ると、数十世代で、何千万人以上と計算上なりますが、その時代には、それだけ多くの人口が日本にも世界中にもいない、はずです。一般的には人類の祖先は何百年も前にアフリカで暮らしていた、という説があり、本当は最初は少数だった彼らから現代の私達約70億人もの人類に広がっている、と考えられています。しかし私を起点として逆に祖先へ遡れば、同じくとんでもない多さの人口になる。これは、この演繹と帰納の衝突、はどう理解すべきなのでしょうか。おそらく、私たちの祖先は、歴史のどこかで、しっかりと交わっている、からではないでしょうか。つまり通常他者だと感じている他の人たちは、自分の祖先であり、遠い親戚だ、ということではないでしょうか。こう考えると、誠に不思議なもので、普段すれ違うどんな人も親戚に見えてしまう。怖い顔した人たちにも、なんとなく「あのような親戚も居るのだなぁ」と微笑ましく会釈などしてしまう。(笑)
さて、次は現在に視点を移します。ボクはたまたま日本という国に生まれ育ち、高度経済成長期であり、おかげさまで衣食住に困った経験がありませんでした。交通機関や教育機関、病院などの施設もあり、とても機会の多い人生を歩ませてもらいました。しかし発展途上国に生まれた人たちはこのような環境ではありません。先進国の人には想像できない環境で、出生後も生命の危機に遭遇しています。現在でも、飢餓状態のリスクを抱えている人たちは約10億人いると言われています。また、現時点でもロシア・ウクライナの間で戦争が続いています。多くの人たちが死亡したり困難な生活を強いられています。食料や水、衣料や住居、医療、福祉、教育、それらを含めた生命の安全保障は、どのような時代でも重要です。私はたまたま幸運にも、衣食住に不足なく生きてこられている。この、衣食住を中心とした生きる環境が整っている、それらを作ってくれている人々、それらを維持し、供給してくれる無名で多数の人々が存在しています。さらに言えば、人類以外のあらゆる種も地球上の物質サイクルの一部を支えています。生命に欠かすことができない空気や土壌なども多様な種の貢献という以外に言い得ません。これらの私たちの生命を支える全てを”生きる”ための横軸と致します。
これらの”生きる”ための縦軸と横軸の交点が私です。言い換えれば、大きな一枚の布、その中の結び目の一つが私。この布がなければこの私は存在していない。もし私が私自身を指さすとすれば、それは結び目自体を指していると同時に布を指している、といも言えるでしょう。(この様子をタイムラプスで俯瞰できるとなれば、もっと動的で、たとえれば滝の流れのようにダイナミックなものに見えるのでしょう。その場合も同じように私は一滴の水滴であり、滝全体とも言えるはず。そう考えると、もしかすれば私とはまるでホログラムのように自身の中に人類の過去・現在・未来が織り込まれている存在かもしれません。)
このような生命観を元に考えてみると、「殺人」あるいは「自殺」というものが、多くの人たちの精神の中で原初的な悪、とあらかじめ認識されているのではないかと感じます。(他者を殺すことは自己を殺すことを意味する等です。この件についてまた考えてみたいと思います。)
コンゴ共和国の先住民の言葉に「ウブントゥ」という言葉があることを、ノーベル平和賞を受賞されたデニ・ムクウェゲ氏がスピーチの中で紹介されていました。「他者を通じてのみ私は在る」という意味です。国内では、詩人宮沢賢治氏も「春と修羅」の序文で、「わたしといふ現象は、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です。」と書かれています。さらに最近逝去された作家立花隆氏は、著書の中で「私たちはいのち連続体といのち連環体の中にいる。」と述べられています。これらの表現も、私という存在は縦軸・横軸に存在してくれた(ている)他者を通じてのみ存在していることを示唆しているものと思います。
次の回は、本題である「生きることに意味、目的はあるのか」について考えたいと思います。